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The Giving Tree : おおきな木

2008年10月10日 20:00

「本」を手に取る事は滅多にないが、久し振りにある「本」を勧められて読んでみた。「本」と言っても「絵本」

読後感を問われて・・・・・・「解釈の余地を充分に残したままに、決して断定はせず・・・・」

読んでその場の返答はそんなどっちつかずの解釈にとどめた。読解力の有無などという話ではなく、
この「本」事体に正解など無いし、捉え方は自由。そんな事は読んですぐに分かったが、何故か自分なりの解釈を素直に言う気にはなれなかった。


ここまで言っておいて申し訳ないが、身構える事のない様に是非、無防備で読んで欲しい。




少年が幼い頃、木と少年は毎日仲良く遊びました。          


少年は、枝にぶら下がったり、幹に上ったり、りんごを食べたり、かくれんぼをして遊んだり
そして、疲れると木陰で眠りました。少年は木が大好きでした。木はとっても幸せでした。
     


でも、少年が成長して、次第に木は一人ぼっちで居る事が多くなりました。

ある日、少年は木に、「 他の遊びをしたいからお金をくれ 」 と言いました。

木は、「 お金は無いけれど、私のりんごを街に持って行って売ればいいよ 」 と言いました。

少年はりんごを全部採って行きました。     

・・・・・・・・・・木は幸せでした。
           

でも、また少年は長い間来なくなりました。・・・・・・・・・・木は悲しくなりました。

     そんなある日、また少年がやって来ました。

木は 「 おいで、ぼうや。私の幹に登っておいで。一緒に遊ぼう。 」 と声をかけますが、
       


少年は 「 忙しくて、木登りしている暇はないよ。 」 と言って断ります。

「 それより家族が欲しいんだ。 だから家をくれないか? 」 少年は言いました。

木は 「 私は家は持っていないから、私の枝を切って家を建てるといいよ 」 と言いました。

少年は、枝を全部切り落として、持って行ってしまいました。

・・・・・・・・・・木は、幸せでした。

でも、それから長い間、少年は帰って来ませんでした。


彼が帰って来たとき、木はとても幸せでした。

そして木は、 「 おいで、ぼうや。一緒に遊ぼう。 」 と声をかけましたが、

彼は 「 僕は歳をとりすぎたし、悲しくて遊べないよ 」 と言います。

「 どこか遠くへ行けるボートが欲しい。 ボートをくれないか? 」 少年は言いました。

木は、「 私の幹を切って、ボートを作ればいいよ。そうすれば、船出できるから、そうすれば幸せになれるよ・・・ 」 と言いました。

    彼は木を根元から切り倒しました。


それで木は幸せでした。・・・・・・でも・・・本当はそうではありませんでした・・・・・・・・。
          


長い年月が流れ、彼が帰って来ました。

木は 「 ごめんね、ぼうや、もうあげられるものは何にもないの・・・・。 」 と言いました。

「 りんごは、もう無いの。 」  「もう歯が弱くて、りんごはかじれないよ。」
「 遊べる枝も無いの。 」    「僕はもう歳をとりすぎて、枝をゆすって遊べないよ。」
「 幹も無いのよ。」        「僕は疲れすぎて、もう、木には登れないよ。」

「もう何にも無い。私はただの、古い切り株になってしまった。 」 と木はいいました。

「僕はもう何も欲しいモノはない。ただ、座って休める静かな場所があれば・・・。」
      



「 それなら、私に座ればいい。古い切り株は座って休むのには丁度いいわ おいで、ぼうや座って、休んで。」

そして、ボートを作って、遠くへ行ってしまいました。

彼は言われるままに、座りました。・・・・・・・・・ それで木は幸せでした。



                                                                                                    the giving tree /  by  Shel Silverstein

※ 日本語では「木」と訳されていますが、原書は「her = 彼女」と女性名詞になっています。




終始、利己的な少年と自己犠牲を厭わない献身的な木・・・・・。

頭の中はすでに一人禅問答を繰り返す。

無償の愛  不朽の愛  アガぺの精神。 それとも、依存度の強い歪んだ愛なのか。

宗教的な思想による愛  不埒な愛 ・・・・・・ 「愛」の形態は様々。

双方で成立してれば、例え背徳的な愛であってもいいという事か?

見え方は多様だが、これはどちらであっても私には出来ない。自我が邪魔をするし、例えこれが「親子」の間であっても躊躇や戸惑いが生じるかもしれない。それが未だ「親」の立場にない今の私の正直な答え。

これは明晰を欠くかもしれないが、愛する人間に「命」を捧げる事は厭わないと誓える。その理由はその後の余生が確定的に消滅するから。
しかし、「腕」や「足」、「目」や「耳」となると自信がない。どうしても、その後があるが故に自分を顧みてしまう。

この絵本はそんな途方もない事を考えさせられる絵本。そんな絵本を読んで、コレを書いている時に
何故かこんな曲がふと頭に浮かんで離れなかった。


                椎名林檎 /  おだいじに    


 

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